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2005.06.22

前 衛 の 条 件 ・ 1

今日、というか日が変わって昨日は、帰り道に家の近所の「京都さくら軒」【西洞院新花屋町下がる東側】で一杯。去年の6月にオープンした店だが久しぶりにいったらちょっと前とテイストが変わっていた。もちろん美味しかったのですが。さくら軒の話は限定メニューができたようなのでそれを食べたときにでも書くことにして、最近考えたつまらない話を(笑) 前衛、の話です(笑) 今日は前編のみ。

人がびっくりするようなことをすれば何でも前衛というわけではない。既存の枠組にとらわれないことが前衛の必要条件の一つであるとしても、「既存の枠組に適合・順応[conform]すること」ほど厳しい条件にはならないから、既存の枠組にとらわれないだけではどんな作品でもできてしまうからだ。それらがすべて前衛だというわけではない。しかし前衛なる概念は、降ってわいたように立ち現れるものではなく、あくまでも「既存の枠組」との関連で捉えられるべきものであることは間違いない。前衛的な作品が行うのは、たんなる「既存の枠組」からのたんなる逸脱ではなく、旧来の価値観や、無意識のうちに前提とされていた概念の積極的な否定である。例えば、便器を作品として美術展に出品した「泉」をはじめとするマルセル・デュシャンの作品は、「レディメイド」という概念ともに語られる。それはこの概念が、「作品」は「作家」によって「創造」されたものであるという(ロマンティックな)「常識」と対立するからである。その意味において(その意味においてのみ、ではないが)「泉」は前衛的であった。

それではラーメンにおける前衛とは何か?

芸術は有用でなくてはならないという機能主義的義務を負わない。むしろ無用であることが芸術であるための必要条件になっているのではないかという気さえする(もしもデュシャンの「泉」が、それを観る者がそこで排泄を行うことを意図したインスタレイションであったなら、それは「作品の無用性」という芸術の前提を否定するという意味で「前衛的」であっただろう)。しかしラーメンはそうではない。ラーメンはおいしくなくてはいけないし、何よりも食べた人の腹をふくらまさねばならない。だから例えば、麺の入っていないラーメンやスープがお湯であるラーメンは、たしかに前衛的ではあるかもしれないが、もはや少なくとも商品としての「ラーメン」ではない。さらにこういう問題もある。例えば「泉」それ自体は前衛だったが、その後「レディメイド」を芸術の世界に持ちこむことはなかばあたりまえのことになった。今日ではそのような作品も立派に芸術作品──少なくともカタカナ書きの「アート」──であるとみなされている。つまり「既存の枠組」は前衛を取りこむ方向で拡張するのである。これはラーメンでも同じである。例えば(あくまでも例えば、である)、Wスープがラーメンの発達史の中のある時代において前衛だったとしよう。しかしそれは今日ではごくスタンダードな一つのラーメンのスタイルとなっている。ラーメンの方が、前衛が枠組の中に取りこまれていくスピードは速いだろう。それではラーメンに前衛はありえないのか?

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